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プロフィール

京都調布市出身。
高校卒業までたくさんの人との出会いがある中で、子どもの立ち位置に立てる大人になりたいと思い養護教諭を志します。

志す中で、お子さんをお預かりする立場に責任を感じ、看護師の資格を取得してから養護教諭になろうと決めました。看護師と養護教諭の資格を得たのち、すぐにでも養護教諭として学校に勤めたかったのですが、子どもたちの “もしも” に対応できるようにするため、逸る気持ちを抑え看護師として臨床に出ることを決めました。

勤務した病棟は神経難病の病棟で、筋萎縮性側索硬化症(ALS)などの脳神経難病や、また脳梗塞の患者様が多い病棟でした。人工呼吸器を使用している方が多く、人工呼吸器をつけたまま入浴支援ができるようになったのは、ここで働いた経験があるからです。

病棟勤務を経て、念願の養護教諭として私立高校で勤務することになりました。

全力で子どもと向き合いたい、守りたい、と思う気持ちが強く、養護教諭として勤務に至るまで10年近くかかりました。

霞市膝折町出身の夫と結婚後、朝霞で生活をスタートします。

養護教諭として勤務していましたが、流産し、体調が優れないことから退職します。その後、娘と息子を出産し子育てを楽しみました。

子どもが学校に行っている時間を使って、パート勤務に出るようになりました。

教員だと朝の打ち合わせなどがあり、子どもの登校よりも早くに出勤しなければいけないため、夜勤勤務の職を選びました。

子どもが起きているときは子どもとの時間を過ごしたいという気持ちが強く、子どもの寝る準備をしてから仕事に出ました。夫の協力があってこそできたことです。

病院勤務もそうですが、クロネコヤマトで留学生たちと一緒に集荷もしました。

子どもたちが家にいない時間が増え、フルタイムで仕事を始めるようになります。

看護師ではなく介護職員や支援員の視点を学びたいと思い、介護老人福祉施設で介護職員として勤務し、その後ご縁があって最重度の知的障がい者施設で、支援員としてフルタイムで勤務しました。勤務する中で、現場と社会認識のズレがとても歯がゆく、養護教諭をしていたときのような違和感を感じるようになります。

今まででしたら、気がつかないふりをしてやり過ごすのですが、自分ではできないだろうと思っていたことを思い起こし、諦めずに課題と向き合おうと決意し、市政に挑戦する意を固め、今に至ります。